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それにしても心というやつはなんという不思議なやつなのだろう。

今日、3月24日は梶井基次郎の命日である。私がこの人物を知って以来、2度目の檸檬忌となる。ここで、少し思い出話をしようと思う。

 

梶井の代表作である『檸檬』と出会ったのは昨年の1月中旬、現代文の授業でのことだった。その頃の私は部活動に関することで常に気分が重く、更に何に対しても意欲を欠いていた。

 

そんな中行われた『檸檬』の初回授業。得体の知れない不吉な塊を抱えた主人公による現実逃避の数々、その最初の数段落に心踊らされたのを今でも覚えている。みすぼらしくて美しいもの、きっと今それらが私の眼前にあろうとも、今の私には何の感興も湧かないだろう。もしかしたら過去の私にとってさえもそうかもしれない。しかし何の変哲も無い文字列から浮かび上がってくるイメージは、何やらキラキラしていて非常に魅力的であった。

ここが京都ではなく仙台や長崎だったら、という部分では「我々からすれば京都がその逃げ出した地にあたる」と仰る先生。「そうだ、京都行こう」のCMでお馴染みの「私のお気に入り」を口ずさむ。(可愛い。)先生も自身の高校時代について、’鬱々として楽しまぬ日々’という表現をされており、きっとこの主人公に共感しうる部分があるのではないかと感じた。

 

勿論、積み上げた画集の上に爆弾に見立てた檸檬を置いたまま丸善を出る、という終盤部分も好きだ。発想が本当に面白い。自分も主人公と共に愉快な気持ちを味わえるような気がした。しかし、一番はやはり序盤部分である。なぜこの部分の文章が私をこんなにも惹きつけたのかは正確にはよくわからない。きっとその理由は自分の憂鬱と主人公のそれを重ね合わせて味わう感覚、そして何と言ってもそんな憂鬱を含め様々な経験をお持ちの先生による授業のワクワクにあったのではないかと思う。

 

あんなにしつこかった憂鬱が、そんなものの一顆で紛らわされる--

そんな『檸檬』とその授業に感謝を込めて。

そして、部活動の集大成の全てが終わって、死んだようにこの作品を読んだ1年前の今日に想いを馳せて。